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気の向くままに / Rough Consensus, Running Code

2011年7月24日
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場所論ー003

『場所の現象学』エドワード・レルフ著、高野岳彦ほか訳『場所の現象学』ちくま書房(ちくま学芸 文庫)、1999年。 「人間の経験における場所の意義はそれよりもはるかに奥深いものであるということは、破壊しよう とする外部からの力に対抗して自らの場所を守ろうとする個人や集団の行動を見れば明らかだし、ま たホームシックや、どこかの場所に対して郷愁を感じた経験のある人なら誰もが知っていることであ る。人間的であるということは、意味のある場所で満たされた世界で生活するということである。つ まり人間的であるということは、自らの場所を持ち、知ることである。」(pp25-26) 「私たちの日常生活においては、場所は、単に位置や外見によって記述できるような明確に独立し て定義される実体としては経験されない。むしろそれは、場所を取り巻く背景、景観、儀式、日常の 仕事、他の人々、個人的体験、家庭への配慮とのかかわりなどが渾然一体となった状況において、そ してまた他の場所との関連の中で感じられるものである。」(p81) 場所のアイデンティティとはどのようなものであるか。場所のアイデンティティの基本的要素は物質的 要素、人間活動、意味の3者である。そしてさらに、これらを結びつけ含有するものがある。 「それは、『場所の精神』、『場所のセンス』、『土地の気風(ゲニウスロキ)』のように、特徴あ るいは個性という言葉に関係したあらゆる言葉で様々に呼ばれてきたアイデンティティの属性である。 明らかに場所の精神は、地形や外見、経済的機能や社会的活動、および過去の出来事と現在の状況か ら引き出される特定の意義伴っているが、これらの単純な総和とは違う。場所の精神は、アイデンティ ティの基本要素が根底から変化しても永続することができる。デュポスは次のように記している。『際 立った特徴は変化にもかかわらず存続する。イタリア、スイス、パリ、ロンドンは、多くの社会的、文 化的、技術的変革を経ても各々のアイデンティティを保ってきた。』状況の変化を経ても保たれる場所 の本質は微妙で漠然としており、形式的・概念的な言葉では容易に分析できない。しかし同時にそれ は場所の個性やユニークさを構成するものだから、私たちの場所経験においては、純粋で明白なもの である。」(p127)また、場所のアイデンティティは、その場所のイメージが個人的なものである か、集団的なものであるか、あるいは社会的に共有されたものかによっても異なったありようを見出 すことができるのである。 場所や景観が作られるとき、場所のセンスや場所への愛着がどんな形で現れるのか。 「人間が必要とするのは土地の切れ端ではなくて、「場所」なのである。それは人間としてのびのび 発展し、自分自身になれるための背景なのだ。この意味での場所はお金で買うことはできない。それ は長い時間をかけて人々の平凡な営みによってつくられなければならない。彼らの愛情によってス ケールや意味が与えられなければならない。」(p185) 「没場所性とは、どの場所も外見ばかりか雰囲気まで同じようになってしまい、場所のアイデンティ ティがどれも同じようなあたりさわりのない経験しか与えなくなってしまうほど弱められてしまうこと である。」(p208) 具体的には、ディズニー化された場所や、ニュータウン、高層建築などによく見出されるような景観 である。これらは、メディアが相互作用するプロセスを構成し、それを通して没場所的な景観が発達す る。また、場所は公共の利益に沿って操作できるものと理解され、機能や技術にかかわる特性や可能 性だけが評価されるような「場所に対する偽物の態度」がそうした没場所の根源であり本質なのである。「没場所性」とは、個性的な場所の無造作な破壊と場所の意義に対するセンスの欠如がもたらす 規格化された景観の形成であると言えるだろう。 「私たちの現代の環境には、喜ばしく魅力的なものがたくさんあり、多くの建物や開発はドラマチッ クで刺激的である。そして、私たちの経験は浅いかもしれないが、それらはまた大きな寛容さを持ち合わせており、没場所性は、場所からの自由をも意味し、日常性は官僚的消費社会のワナとともに、 … Continue reading

2011年7月24日
by admin
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場所論ー002

場所は、多くの人々にとって、人間との親しい関係と同じように必要かつ重要なものである。意識的・無意識的にかかわらず、私たちは日々、その場所にいることで、場所の影響を受けているだろう し、また一方で、そこで日々を過ごすことで、「場所」を創り出す一角を担ってもいる。 現実に生き る存在として人間は、場所と切り離されて存在することは出来ない。人間は生まれてから死ぬまで、常 にどこかに存在し、場所と関わりながら生きている。 チェルノブイリのように、ひとつの歴史的事故が、それまで生まれ育っていた地を生存不可能な場所 に変えてしまい、移住を余儀なくされることもある。そうかと思えば、開発の波に揺さぶられ、かつ てとは全く違う景観になってしまった町は日本中、世界中に数多く存在する。水俣の人々は、チッソ による有機水銀垂れ流しによって生まれた公害によって引き起こされたわだかまりを地域全体でうけながらも、いまもその地に生きる。 負の意識をもった場所で生まれ育つことは、アイデンティティに負の意識を付与することにもなるの かもしれない。 人々の記憶は「生きられた場所」に分かちがたく宿り、経験は場所に分かちがたく結 びつけられている。 「人間が必要とするのは土地の切れ端ではなくて、「場所」なのである。それは人間としてのびの び発展し、自分自身になれるための背景なのだ。この意味での場所はお金で買うことはできない。そ れは長い時間をかけて人々の平凡な営みによってつくられなければならない。彼らの愛情によってス ケールや意味が与えられなければならない。」( エドワード•レルフ『場所の現象学』 p185) 場所とは、意味をもった空間のことである。「生きられた世界」、つまり日々の営みの中で、私た ちが暮らし、知識を得、直接に経験する背景や状況となるものである。場所は、多くの人々にとっ て、人間との親しい関係と同じように必要かつ重要なものである。意識的・無意識的にかかわらず、私たちは日々、その場所にいることで、場所の影響を受けているだろうし、そこに生活する人々のアイ デンティティの基盤を提供しするものでもある。 ドロレス・ハイデンが『power of place(邦題:場所の力)』で語るように、場所を守り、また新たに創り出してゆくことは、何らかの方法で自動的に達成されるというようなものでなく、場所に対 する本来的な希求に根ざした個人及び集団の努力によってはじめて可能になる。そうした人々にとって重要な「場所」がいかにして形成されるのか、またそうした場所を意識的に、いかにして形成してゆけるのだろうか。 「場所の力、それは、ごく普通の都市のランドスケープに秘められた力である。共有された土地の中に 共有された時間を封じこみ、市民の社会的な記憶を育む力である。」とドロレス・ハイデンは述べている。「場所の力」は、何気ない日々の営みの中で、自然と形成されるものであるとも言えるだろう。そこに人との思い出があれば、どんなものでも、場所の力を果たせるような装置に自然となりうるのだと思う。